気まぐれ日記 2013年1月

2012年12月は

1月1日(火)「平和な元日・・・の風さん」
 喪中なので、昨夜は年が明けても、新年の挨拶はできなかった。
 正月気分ではないし、かと言って無理に暗く振る舞う必要もなかったので、映画の「トップガン」を観てから寝た。
 しかし、実際は、観終わった直後、モーレツに眠くなり、リビングでしばらく横になってから、風呂に入って寝た。
 たっぷり寝た今朝は、もう既に日は高く昇っていた。
 もちろん今朝も新年の挨拶はできない。だから、家族の間では「おはよう」だった。昼近かったが。
 そして、なぜかブランチは雑煮だった(笑)。ついでに、長男が京都で買ってきた土産の発泡日本酒まで出た。
 かたいことは言わないことにした。
 郵便ポストをチェックしたら、大量に喪中ハガキを出したにもかかわらず、年賀状がけっこう来ていた。
 笑えたのは、社長名の会社からで、ちゃんと弔事届を出したので、葬儀には社長名で花輪も弔電も香典も届いたのだから、しっかりしろよ、と言いたかった。おそらく、チェックして出す出さないを判断するより、無差別に全部出してしまう方が低コストだと判断したのだろう。愚かなことだ。
 昨日は「なばなの里」まで遊びに行ったので、今日は外出は控えることにした。
 アイフォン5、iPad mini 、マックブックエアーそして新執筆マシンと、一気に4台の新しい相棒ができたので、それらを使いこなせるようにしなければならない。
 想像するだけで、膨大な仕事量になりそうだ。一つ一つ着実にやっていこう。
 夜は、焼き肉パーティーとなった。
 次女は元日からバイトに出かけたので、4人だけの食事で、1kg の肉はやや多かった。
 やや食傷気味になったので、さっぱりしようと、私は、5個のアイスクリームを使って、盛り合わせのデザートを作った。
 量が多過ぎると、非難ゴウゴウだった。
 明日から仕事が始まる(5時起きだそうだ)長女は、今夜名古屋へ帰って行った。

1月2日(水)「寒風の中の散歩・・・の風さん」
 昨日と同じような1日の始まりだった。
 新執筆マシンへの必要最低限のソフトのインストールを始めた。
 オフィスは問題なくできた。アドビ(pdf作成ソフト)もアカデミック版なのだが、こちらは学生か教職員であることが認定されてからシリアルナンバーが届く仕組みなので、ちょっと面倒くさい。
 アイフォン5でQRコードを読み取る必要が生じたので、そのためのアプリを先に取り込んだ。
 その後、学生証を写真に撮って、確認機関へ送信した。
 シリアルナンバーが届くのは、週末か週明けになるだろう。もっと早くやれたらよかったのだが、そんな時間的な余裕はなかった。
 珍しくワイフが海岸まで散歩に行こうと言い出した。
 何年か前に、運動のために毎日海岸まで往復したことがあるが、冬はけっこうきつい。風が吹いていると、寒さが身に染みるのである。
 今日もその強風が吹いている日だった。
 窓から外を見たときは、とても暖かそうだったが、大間違いだった。
 ポケットにしのばせた充電電池式のカイロは、海岸でワイフに強奪された。
 久しぶりに歩いて、新築された家が何軒かあったのはうれしかった。世の中デフレで不景気だが、家が建つならまだ望みがある。

1月3日(木)「相棒たちとの付き合いは大変・・・の風さん」
 元日から3日連続10時近い起床となってしまった。
 昨年はずっと無茶な生活をしてきたので、骨休めできていいのだが、やらねばならない仕事がはかどらなくて焦ってくる。
 新執筆マシンはとても快調に動作する。これまでの執筆マシンで、なぜか動きが鈍かったソフトまで、すいすいと動く。
 しかし、調子に乗ってファイルやデータで重くしてはいけない。
 本体の1TBのハードディスクにはプログラムを、データは、外付けのHD(640GBがデータ専用で、1TBはバックアップ用)に入れることにする。とにかく余計なソフトは入れないことだ。
 データの移行も順調に推移している。
 今夜も焼き肉パーティとなった。途中から次女も入った。
 料理人の長女がいなかったのは、残念だが、仕方ない。
 今夜はアイスクリームの盛り合わせは出さなかった。冷蔵庫に残っているものにも、誰も手を出さなかった。
 今日も深夜まで相棒たちと仲良くなるための作業に励んだが、なかなか終わらない。

1月4日(金)「フィールド・オブ・ドリームス・・・の風さん」
 iPad mini 用に「フィールド・オブ・ドリームス」も購入してみた。
 ケビン・コスナー主演の名作で、もちろん観たことがある。
 それだけではない。会社の部下の結婚披露宴のスピーチで、夫婦愛の象徴として2度も話したことがある。
 2日の未明にビール片手に観たのだが、夫婦愛よりも父と息子の話だった。
 息子が死んだ父親の熱い想いを知る話だ。拙著『ラランデの星』にも通じる。
 しかし、一昨日、これを観ながら、私も強烈に亡父の想いを感じた。
 亡父は高校の先生だった。もっと具体的に言うなら、農業高校の校長だった。
 若いときから管理職としてやってきたのは、出身が名門(東京帝国大学農学部付属農業教員養成所)だったせいだろう。
 仕事熱心な父だったが、もう一つの特徴は、無類の勉強好きだったことだ。自宅にいるときの父は、いつも本を読んでいた。
 私は子供のころから、親父を越すことはできないと考えて、絶対に先生にはならないと決めていた。
 ところが、勉強好きの血を受け継いだ私は、還暦近い年齢になってもまだ勉強しているし、小説だって、とにかく調べまくらないと書けない作品ばかり書いている。調査、分析、考察、研究が大好きらしい(笑)。
 「フィールド・オブ・ドリームス」を観ていて、ふと気が付いた。
 (親父は、本当は研究者になりたかったのだ)と。
 大学に入ったときはそれほど感情を表さなかった親父が、私が大学院受験に合格したときは、非常に喜んでいた。
 2つ目の大学院に入ったとき、既に親父は死んでいた。その後、私が、幸運にも学会賞をもらったり、多くの専門家の前で講演したり、さらに3つ目の大学院にまで入学しようとは、生前は想像もしなかったろう。
 しかし、今の私の姿は、若かったころの父の夢だったのではないか。
 私は、知らず知らず、父の求めていた野球場でプレイしていたのだ。

1月5日(土)「母を失った喪失感、寂寥感が・・・の風さん」
 今日も朝から寒い1日だった。
 私はほとんど終日、パソコン環境の整備に時間を費やしてしまった。
 書斎の新執筆マシンによる執筆環境を整えるため、旧パソコンを仮住まいさせている長女の部屋を何度も往復した。
 そして、ときおり書斎の窓から寒風が吹いている外の景色を眺めるのだが、ふと母のことを思い出すと、言い知れぬ喪失感と寂寥感に襲われる。まるで純文学の世界だが、実際そうなのだから仕方ない。
 たとえ1年以上帰省していなくても、福島へ帰れば母がいる、そう思えるのと、帰省してもそこには母がいないという現実を突き付けられるのとでは、激しい違いがある。
 そのことに気付くと同時に、本当に胸にぽっかりと大きな穴があいたような感覚にとらわれるのだ。
 体の中からすべてを吐き出すようなため息が漏れ出てくる。思わず声が出る。あ〜あ、と。
 晩年の母は重い認知症だった。気丈で勝ち気でプライドのかたまりのような人だったから、周囲にそれを気付かせない言動がたくみだった。
 私たちが気付いたときは手遅れだった。心筋梗塞の後で、母の体力も限界に近かったに違いない。しかし、その体力の衰えさえ、なかなか私たちに気付かせなかった。
 書斎のデスクの上に、当初考えたとおりの執筆環境が整いつつある。
 あと少しだ。
 私も母と同じように、自らの心身の衰えを強烈に自覚しながら、周囲には虚勢を張りながら、ギリギリまで生きていくのかもしれない。一方で、子供らには迷惑をかけてはいけないという、理性と自制心も頭を持ち上げてくるが……。
 両方の折り合いはどこで付くのか分からない。
 とにかく衰えてきた私には、高性能パソコンを中心とした執筆環境が必要なのだ。

1月6日(日)「悪魔の連休最終日・・・の風さん」
 とうとう連休最終日になってしまった。
 昨日までの寒さがうそのように穏やかな気候になったのに、早起きできなかった。
 急いでブランチを摂り、外のタンクに灯油を入れてから、今年初めてミッシェルで外出した。
 郵便をポストに投函し、ガソリンスタンドまで足をのばして、給油と灯油を2缶購入した。
 帰宅したら、もうランチの時刻がせまっていた。
 昨日、新執筆マシンのマルチウィンドウ化に成功していたので、やっと今日から仕事を本格化できる。
 初仕事は会社の講義資料作成である。何とか早めに完成させたい。
 その隙に、旧執筆マシンのデータを外付けハードディスクにバックアップしようとしたのだが、ここから誤算が始まった。
 バックアップソフトが2度も途中でストップしたのである。
 半日かけて約4割終わったところでのストップなので、脱力してしまう。力づくのコピーアンドペーストでも駄目だった。
 それならと、チェックディスクをかけて、次にデフラグをやろうとしたら、デフラグでも途中停止してしまう。
 ハードディスクに物理的な欠陥が生じている可能性がある。以前のパソコンと似た症状だ。
 その間に、新執筆マシンで資料作りは着々と進めていたのだが、なかなか終わらない。
 こんな状態が夕食後も続いた。
 そうこうしているうちに、とんでもないトラブルが発生した。
 我が家のガス式給湯器が作動しなくなったのだ。
 防寒具を着込み、軍手に懐中電灯を持って室外機の点検に出動した。
 はたして「歩くガス屋」となれるかどうか。
 カバーを外して内部も確認し、漏電リレーのリセットなども試みたが、徒労に終わった。
 発見した唯一の異常は、室外機の下に水たまりが生じていて、テーピングしたパイプから水がにじみ出ていたことだ。
 今夜の入浴を諦めると同時に、午前零時前に就寝することも断念した。
 結局、寝たのは午前3時だった。

1月7日(月)「給湯器が更新・・・の風さん」
 夜が明けても給湯器の電源は入らなかった(昨夜コンセントを抜いてあった(^_^;))。
 寝坊したので、いい加減に身支度を整えて、ミッシェルに飛び乗った。
 高速を暴走したが、あまり時間は稼げなかった。
 一般道に降りてからは悲惨だった。先行する車がのろまで、片っ端から赤信号に引っかかる。
 5分遅刻してしまった。
 喪中なので、年賀式はあったが、新年の挨拶がまともにできないまま、時間が過ぎていった。
 名大からシンポジウムの準備状況がメールで届いていたが、読んでみて、ますます私には荷が重いことが分かった。
 生産技術部の上司とは、明日相談する予定。
 昼休みにワイフにメールしてみると、既に業者が来て、給湯器は内部まで水浸しなのが判明し、新品に買い替えるしかない状況のようだった。貧困と寒さで情けない家計が、二度と立ち直れない状態に沈んでしまいそうだ。
 夕方、旧職場へ移動して、年賀式に出てから、速攻で帰宅した。
 給湯器が新品になっていた(今夜は風呂に入れると思うと、嬉しかった)。
 夕食後、旧執筆マシンからのデータバックアップを手動で、しかもフォルダ単位で(一回に1GB未満になるようにして)やりながら、ビジネススクールの事前課題をやった。
 50GBほどバックアップが完了したところで中断し、昨夜の続き、つまり明日の講義の準備を新執筆マシンで再開した。
 最初にレジュメを作り、これを職場の運営担当にメール送信したあと、スライドのリファインに取り組んだ。
 就寝は、昨夜より早い午前2時だった(その直前、今年最初の読了があった)。

1月8日(火)「最後にビールくらい許してよ・・・の風さん」
 今日も目が回るような1日だった。
 目が覚めた時、昨夜作成した資料をもっとコンパクトにできるアイデアが浮かんだ。
 こうなるともう居ても立っても居られない。
 新執筆マシンに向かって修正に取り掛かった。
 朝食も早々に、製作所出張をとりやめて、旧職場に向かった。途中で、そのことを上司へメールで伝え、念のため電話もしたが、応答してくれなかった。
 旧職場では、30分の滞在時間の間に、バタバタと仕事して、つむじ風のように立ち去った。
 続いて、本社へ行き、部長と副社長のところで打ち合わせ。終始、私は副社長からからかわれていて、辞退するはずだった社外講演を引き受けることになってしまった。
 その後、別の打ち合わせを部長とおこなった。
 昼食後の元同僚との団らんの合間に、副社長が部長席にやってきたらしく、粘っていた私がとうとう諦めて講演を引き受けたことに満足そうな会話をしていた。私が聞いているとも知らず(笑)。
 また、慌ただしく本社を出発し、途中で中古車屋に寄ってミッシェルのワイパーの異常をみてもらった。
 中古車屋の社長が、昨年8月のミッシェルの車検のときに、好意で錆びたワイパーを外して塗装をしてくれたのだが、左右逆に取り付けていたことが判明した。同時に、好意の塗装もばれて(明確に説明がなかったので、私もうっかりしていた)、謝る社長と感謝する私の珍妙なシーンが展開された。
 研修所に到着してすぐ、昨夜と今朝用意した資料に基づく講義の準備を開始した。
 講義とは言っても、私が社外でやっている4本分の講演を、一度に90分でやるという途方もないものなので、所内にいる人たちに聴講を呼びかけたため、講義室はいっぱいになった。
 怒涛の90分が終わって、けっこう反応があった。やってよかった(本も3冊売れたし)。
 しかし、疲労はかなりなものだった。講演の疲労というより、寝不足と朝からのバタバタのせいだ。
 帰宅して、元気が戻ったので、ファックスを送るやら、旧執筆マシンのマニュアルバックアップの続きをやるやら、ハツカネズミのように動き回って、最後、就寝前に、ビールを飲みながらビジネススクールの予習までやった。

1月9日(水)「原画が送られてきた・・・の風さん」
 年が明けて早くも追い詰められた感覚がするようになってきた。
 とにかく今度の週末のビジネススクールを乗り切らねばならない。3日連続の集中講座で、レポートもある。
 今朝も少し寝坊した。
 有料道路を時速@@@kmで突っ走って、研修所へ急いだ。
 席に着いて、真っ先に取り組んだのは、昨日引き受けた講演タイトルを事務局へ伝えることだった。
 講演会の趣旨、主催者の要望、提供できるネタから構成される講演骨子(案)などを、総合的に考慮し、さらに聴き手が興味を覚え、話し手である私のモチベーションも高まるようなタイトルを考えていたら、あっという間に1時間以上経過してしまった。
 続いて、震災リスク対応予算の執行状況整理と、次年度以降の予算立案資料の作成に取り掛かった。
 こちらも考慮すべきことが多数ある。
 さまざまなことを考えて仕事をするのが私の特徴なので、どうしても時間がかかってしまう。
 所内で説明して、助言を得ることができたのは、夕方だった。
 帰宅したら、高山ケンタさんから荷物が届いていた。
 開けてビックリ! 一昨年の『星空に魅せられた男 間重富』の表紙の絵だった。
 もしかすると、結婚祝いに対するお返しかもしれない。
 立派な額に入った絵を、眺めているうちに、ケンタさんの気持ちが胸に迫ってきて、嬉しくて涙がぽろぽろこぼれるように流れ落ちた。
 まもなく帰宅してきた次女に見せると、「お父さん。これ、原画だよ」。
 油彩で板に色を塗り、先がとがった道具で削り取って線を出す、独特の画法で描かれた絵だが、ななめから見てみると、確かにその道具が走った繊細な痕跡が刻まれていた。
 ケンタさんにとって子供のように大切な作品だ。
 私も同じ気持ちで保管しよう。

1月10日(木)「寒さ対策のできない場所・・・の風さん」
 昨日の研修所はオフィスの自席に座っていると、足元がしんしんと冷えてつらかった。
 それで今日は、愛用の充電式カイロをポケットにしのばせて出社した。
 午前中は資料読みに専念したが、カイロのおかげで何とか心臓発作も起こさず乗り切った。
 午後になって、会議もあったが、昨日の予算立案の続きをやった。定時後になっても、まだ決着がつかず、新たな資料も作成した。それを最後に、さっさと退社した。
 寒さは何とかしのぐことができたが、予定では、今日、銀行口座から、昨年の家族での福島往復の旅費(クレジットカード払い)が一気に落ちる。今頃、口座の中を厳しい寒風が吹き抜けているだろう。
 今夜は、旧執筆マシンのDドライブのバックアップが終了したので、来週明けまで一段落することにした。
 バックアップデータの入った1TBの外付けハードディスクを新執筆マシンに接続して、ビジネススクールの準備を徐々に本格化させていった。
 しかし、今夜も就寝時刻は午前3時近くなってしまい、明日の会社の仕事が不安である。

1月11日(金)「明日からまた授業・・・の風さん」
 会社が始まって早くも週末である。早くも、と書いたが、振り返ってみると、非常に長く感じられる。それだけ忙しかったのだ。
 出社してすぐ懸案事項に取りかかった。社外との調整業務である。
 元副会長からの伝言をB社の専務へ電話で伝えた。在席だったので、すんなりと目的を達成できた。
 続けて、社長へのレターをしたためた。これも元副会長の指示である。
 今夜は研修所の鏡開き行事でお汁粉が食べられる。魅力だが、超多忙な風さんは、後ろ髪を引く手を振り払って、旧職場へ向かった。
 旧職場ではマイペースで仕事し、定時でさっさと退社した。
 ミッシェルに給油し、灯油も買って帰宅。
 明日から3日連続でビジネススクールがあるので、作戦を立てる。目標は合格して単位取得だ。
 その結果、今夜の予習は、午前1時で強制終了させた。まだ完成していなかったが、初日でダウンするわけにはいかなかった。

1月12日(土)「初日は悲惨・・・の風さん」
 MacBook Airのビジネススクールデビューの日だ。
 しかし、肝心の予習ができていない。時間がなかったことは、理由にはならない。そもそも最初のケースが分析できないのである。
 全体議論では、ときおり他愛のない意見を言って存在感を示したが、グループディスカッションになって沈没した。当然、発表でも後ろの方で小さくなっているしかなかった。
 7時半に今日の講義が終わって、別の講義室へ直行した。
 昨年受講した高福院の副住職さんへ、あの後出版した『江戸の天才数学者』を贈呈した。今年も長谷川伸先生の墓参のときに会えるといいのだが。

1月13日(日)「少しだけ貢献・・・の風さん」
 グループディスカッションで何も見せられないのは、ほぼ死刑に値する。それに、MacBook Airを持って行っている意味もない。
 昨夜は、合同の懇親会であるネットワーキングにも参加せず、さっさと帰宅し、今朝の3時まで頑張って、ケース課題やレポートの準備をした。
 今回の講義の特徴の一つは、レポートの課題が本から出ていることだ。
 内村鑑三の『代表的日本人』と、福沢諭吉の『学問のすゝめ』である。
 これらの本を読んで、コーポレートガバナンスに関する示唆を整理せよ、というものだった。
 とんでもない課題である(笑)。
 とはいえ、今日は何とかグループディスカッションで少し貢献できた。
 いつもより長い講義の2日目が終わるころには、もうフラフラ状態だった。
 今夜も速攻で帰宅した。

1月14日(月)「ささやかな抵抗・・・の風さん」
 シャバは成人の日で祭日だが、会社は休みではない。
 3日目の講義を受けるために、今日は有休を取得した。
 その3日目は、二つのレポートの提出締切日でもあった。
 それが、なかなかできなかった。
 最後は意識が朦朧となって、明らかに限界を超えていた。
 満足できるレベルまでリファインできないまま、午前6時にぶったおれてそのまま終了。
 1時間の仮眠で自宅を出発した。
 今日は朝からあいにくの雨だ。
 この雨は、東へ流れるにつれて雪になり、講義が終わる頃には、新幹線のダイヤが激しく乱れていた。
 事務室からの連絡で、帰れない人には教室を開放するという!
 そう。今回の集中講義には、東京校、大阪校からたくさんやってきているのだ。
 講義が終わった後、IMD(スイスの有名なビジネススクール)短期留学の説明会に参加した。
 行きたい、と強烈に思ったが、自己資金が百万円必要と聞いて、あっさり諦めた。百万円の借金があって、4月からの授業料の当てもない人には見る資格がない夢である。やれやれ。
 帰りに延長コードと御座候を買って、欲求不満の解消をはかった。

1月15日(火)「深刻なダウン・・・の風さん」
 昨夜帰宅して、ようやくワイフと寒中見舞いの相談をした。
 しかし、体力の限界を超えているわたしには、それ以上の作業は困難だった。
 昼休みに、とりあえず必要な枚数のハガキを買ってきた。
 研修所で三つの会議をこなして帰宅したが、昨日までの疲労がとれていないので、今夜も多くは期待できなかった。
 はたして書斎でダウンした。否、ダウンという程度の生易しい状態ではなかった。寒さで身体の震えが止まらなくなる、心臓発作寸前状態だった。
 石油温風ヒーターの前で、毛布をかぶり、猫のように丸くなって寝た。
 幸運にも、午前3時半にゾンビのようによみがえった。
 出社前に、いくつかの寒中見舞いのデザインを作成して、ワイフに見せることができた。

1月16日(水)「ボケを感じる陽気・・・の風さん」
 久しぶりに理工系の授業を受けた。
 研修所での受講で、著名な先生による経営工学の分野の講義だった。
 社会人入学したときに勉強していた内容だったので、楽勝かと思ったが甘かった。知らない専門用語が出てきて、おまけに理論が理解できなかった。
 ビジネススクールでショックを受け続け、社内の研修所でも挫折しているようでは、もうこれから先、専門的なことはダメじゃないか、もしかすると若年性アルツハイマーになっているのではないか、そんな気がして、落ち込んでしまった。
 暖かな日差しを浴びながら、午後、ミッシェルで旧職場へ移動した。
 もうさっさと引退して、猫とのんびり暮らすのがいいのかもしれない。
 土曜日、大阪へ行くことにしたので、せっかくだから、何か楽しんでこようと思い始めている。
 帰りに灯油を買ったら、また値上がりしていた。円安に向かっているので、当分ガマンしなければいけないだろう。
 寒くなかったので、帰宅してすぐ屋外タンクに補充した。
 やっと寒中見舞いのハガキ(4パターン)を印刷した。

1月17日(木)「平凡な会社生活・・・の風さん」
 一橋大学との仕事は一段落したが、先生との関係はまだ続いている。そして先生も、私の勤務先の別の部署との仕事がまだ続いている。
 その先生が仕事で本社に来ているので、定時後、面会に行ってきた。
 日中はさまざまな会議が続いていて、気分転換にも最適だった。
 約1時間、密度の高い情報交換をして別れた。来週、私は私用で上京するが、先生の都合がつけば、大学の方(一橋大学ではない)で会うつもりだ。
 冷え込んでいる中、研修所に戻った。
 今夜は戸締り当番である。
 9時過ぎに残業していた人たちと一緒に退社した。

1月18日(金)「続いてほしかった平凡な会社生活・・・の風さん」
 午前中、研修所のロビーに置いてあるソファーのレイアウト変更を仲間とした。
 一つ一つ並べ替えが可能なソファなのだが、現状のレイアウトはきわめて平凡で、時間があっても座ってくつろごうという気が起きない。
 3人でメリハリと変化のあるレイアウトを、試行錯誤の末に完成させた。
 どこで腰をおろしても独立したスペースが得られたような感覚になるレイアウトだ。
 十年一日のごとく変化のない研修所に、小さな冒険空間を創造した。
 そんなことをしている間に、本社から心配な連絡が、電話とメールで入った。
 元部下の奥さんが急死したらしいのだ。当然まだ若い。病気だという話も聞いたことはなかった。
 ハッキリしたことが分からないまま、午後は旧職場へ移動した。
 定時間際になって、弔事連絡がメールで入り、ケータイにも同僚から連絡があった。
 急死は事実らしく、土曜日が通夜で月曜日が葬儀だという。
 人の死に直面すると、頭の中にはさまざまな思いが嵐のようにめぐる。
 明後日、通夜に参列することを決めた。

1月19日(土)「杉良太郎の心意気・・・の風さん」
 しばらくご無沙汰状態だった知人に会うため、大阪へ向かった。
 このところ冬らしい気候が続いていたせいだろう。米原を過ぎたあたりから、新幹線の車窓には雪景色が続いた。戦国時代、合戦で奪い合ったかもしれない小山も雪に覆われている。
 京都に近付いたころから、ようやく雪は見えなくなった。
 弁天町まで電車で行ったのだが、雪はなくても外は寒かった。
 会社経営をしている知人は、土曜日も仕事でオフィスに出ていた。
 初めて見る仕事場は、想像していたより広く、経営手腕の確かさを物語っていた。
 豪華な昼食をご馳走になってしまい、恐縮の限りだったが、やはり来てよかったと思った。
 せっかくの大阪だったので、以前取材で訪れたことのある龍海寺を再訪した。初めて訪れたときは緒方洪庵の墓を見るためで、今回は中天游の墓を見るためだった。同じお寺にあることを知らなかったのだ。
 さすがに時代を経た感じのあるお墓だった。
 続けて、新歌舞伎座で杉良太郎の公演「樅の木は残った」を観た。
 一番安い3階席からだ。
 私は杉良太郎の男っぽいところが好きだ。
 今回、彼の公演を観たいと思ったのは、近年の時代劇のホームドラマみたいななまっちょろさに反撃したと宣伝していたからだ。彼に言わせると、暴力とセックスが絶対必要ということだった。
 実際、舞台の中で全裸の女性の入浴(行水)シーンがあり、チャンバラでは斬られた人が血を流し、衣装も舞台も真っ赤に染められた。
 そういった演出がすべてではないが、杉良太郎の心意気を感じたお芝居だった。
 それにしても、「樅の木は残った」という演目を選んだことは、(レベルの高いテーマなので)勇気が必要だったろう。
 大阪へ行ったら必ず買う「ぶた饅」を土産に家路についた。

1月20日(日)「通夜に思う・・・の風さん」
 昨日、新歌舞伎座に着いた時、友人でもある母校の大学教授からケータイに電話が入った。
 元同僚が一昨日の朝、奥さんをなくしたことをメールで伝えてあった。元同僚は、先週、仙台へ出張し、大学教授を訪ねていたのだ。驚いた教授から、詳しいことを聞かれたが、私に話せることは葬儀日程くらいだった。
 今日から北海道へ出張するという教授は、出張先から弔電を打ちたいと言っていた。
 私は、予定通り、通夜に参列するため、夕方から名古屋へ出かけた。
 今日も寒い日だった。
 このところ、外出するときは、必ず電池式カイロをポケットに忍び込ませている。
 地下鉄の駅を出るころには、外はいっそう冷え込んでいるだけでなく、真っ暗だった。
 私の足取りは重かった。
 香典も参列も辞退という弔事連絡だったが、同僚の顔が多く見られて、少し安心した。
 型通りの読経などが終わって、最後に喪主である元同僚の挨拶があった。
 本当に仲の良い夫婦だったのだろう。途中から嗚咽になり、私も涙をこらえることができなかった。
 地下鉄の駅まで同僚と歩きながら、彼らのなれそめを聞いた。
 もちろん私よりずっと若いのだが、出会いは早く、結婚生活で言えば、私たち夫婦と大差ないようだった。
 元部下の悲しみだけでなく衝撃の大きさが分かる気がした。
 香典返しの袋の中に、元部下の胸の張り裂けるような挨拶文が入っていた。

1月21日(月)「身辺整理の必要性・・・の風さん」
 新しい任務を担当している関係で、今日も旧職場へ出社した。
 多くの会議や打ち合わせに出たので、疲れた。空いている時間にこまごましたことをやろうと思ったが、ほとんどできなかった。しかし、週始めでもあり、手帳にアクションアイテム(to do list)を書き出してみたら、途方もない量になってしまい、やる前から精神的に疲労してしまった。
 こういうときは、これまで手がつけられないでいた雑用をわざと選んで、思い切って取り組もうと決意して、実際に取り掛かった。
 ……簡単ではなかった。
 帰宅してもその雑用の続きがあり、新たな雑用が生じた。やるっきゃない。それをやらねば、この懸案事項は片付かないのだ。
 どうやら昨今の私は、あらゆることがキャパを超えてしまっているようだ。
 身近な例をあげれば、蔵書だろう。残りの人生で必要としない本(しかも他人でさえ必要としない)まで抱えている気がする。資料を残して、あとは整理しなければならないのだろう。

1月22日(火)「頼もしい後輩・・・の風さん」
 久しぶりに製作所へ出張した(連絡会出席のため)。
 その後、本社に寄った。元副会長の指示で、一橋大学イノベーション研究センターがまとめた資料を図書室へ提供するためだ。保管場所を検討するというありがたい返事だった。
 図書室へ行く前に、本社ではときどきあることだが、昔仕事を一緒にした仲間と再会した。かつて新人だった彼は、海外も経験し、今は立派な開発者になって、学位取得も目指しているという。こういった後輩たちが多くいれば、私も老体にムチ打って学問に精出す必要もないのだが、弾みもあって、現在のような状況が続いている。それも、9月末で一段落しなければならない。しかし、分かっていても、知識欲は抑えがたく、まだまだ悩みの日々は続きそうだ。
 今日も旧職場へ顔を出し、新しい任務の会議に出た。
 夜、食事中に、左下の奥歯の詰め物がとれた。先月、定期健診に行ったばかりなのに……。

1月23日(水)「驚きの成績・・・の風さん」
 昼休みに歯医者で詰め物を元に戻した。幸い歯が欠けてはいなかったのだが、形状的にへん平なので、この次取れたらかぶせた方がいいだろうと言われた。そうかもしれない。
 8020まであと20年ほどあるが、次第に歯そのものが欠落していくようになるのだろう。恐ろしいことだ。入れ歯なしで人生を終えることはできるのだろうか。
 ロビーに続いて、研修所の図書室のレイアウト変更をした。椅子とテーブルをやめて、ソファ中心のレイアウトにしたのだ。この続きは来週末にやって、さらにその次の週に、図書室へいらっしゃいキャンペーンを展開する。もしかすると、これは最後の無駄なあがきになるかもしれない。何でもそうだが、施設をあるレベルで維持するのには相当な知恵とエネルギーが必要だ。今からそれをやるだけの価値があるかどうか、それが検証されるキャンペーンである。
 夜、ビジネススクールの掲示板で、昨年の最後に受講した科目の合格を確認した。信じられないことに、また「A」だった。

1月24日(木)「上京してぐったり・・・の風さん」
 今日明日と有休だが、6時起床。
 6時29分発の電車で上京するワイフを駅まで送った後、7時から町内会の資源ごみ当番をやった。
 分別収集に協力するのだが、今朝はめっぽう寒く、ポケットのカイロはほとんど役に立たなかった。地面からしんしんと冷える感じだった。
 ごみの集積場には、町内会のブロック単位の掲示板(ウェッブではない)があり、8年前に役員たちで製作し、私が各ブロックに設置したものだ。合板に緑のペンキを塗り、白ペンキで名前を書いた。それが今では、ペンキも半ば剥げ、合板の表層部もめくれている。まさに風雪を経た証拠である。
 8時に当番を終えたが、朝食を摂る間もなく家を出た。
 8時21分発の電車に飛び乗り、新幹線ではシステム工学の本を読み、慶応大学日吉キャンパスに着いたのは11時過ぎだった。ここで、昼食をはさんで1時過ぎまで先生と議論をした。
 次の目的地は神保町だったが、今朝の寒さで体調が狂ったのか、花粉症に苦しみだした。
 くしゃみのし過ぎで体力を消耗するので、熱いラーメンを食べてから、岩波書店に寄った。
 久しぶりの情報交換をし、執筆再開の相談をし、高山ケンタさんが表紙の絵を描いている新刊『科学にすがるな!』を頂戴して、岩波書店を後にした。
 八重洲ブックセンター裏のカフェバーに親友を訪ね、預けてあったワイフと次女の絵を引き取ったころ、ようやくワイフ(有楽町から品川へ向かう電車に乗ってしまったそうな)がやってきた。
 あたふたとそこを失礼したが、私の荷物はまた増えた。こうなると、筋トレをやっているに等しい。
 体調不良がひどく、抗ヒスタミン剤を飲んでも花粉症を抑えることができない。
 フラフラで、神楽坂に着いた。
 今夜は、新潮社に、打ち合わせを兼ねた食事会に招かれていた。
 しかし、私があまりにもぐったりしているので、気の毒に思った編集者が、早めに散会を告げてくれた。

1月25日(金)「日本丸近くの長谷川伸先生の石碑・・・の風さん」
 いくらか疲労がとれて、花粉症が治っていた。
 今日はあまり無理しないことにした。
 東京でやりたかったことをすべてキャンセルし、ただし横浜にちょっとだけ寄って帰ることにした。
 かつて次女が修学旅行か何かで行ったという「ラーメン博物館」に直行した。
 昭和30年代の横浜の裏町を再現しているのか、お芝居の書き割りみたいな風景は、私には懐かしさを通り越してちょっと異様だった。
 1階のショップでワイフの強い勧めにしたがってレーシングカーを走らせたのは、良い思い出になった。子供のころは、手の届かないぜいたくな遊びだったからだ。楽しさと寂しさの両方を同時に感じた。
 桜木町の駅で降りて、日本丸が係留されているところへ行き、初めてワイフに「長谷川伸の石碑」を見せることができた。ここならかなり長い年月残るに違いない。生前の長谷川先生には会えなかったが、孫弟子であることを誇りにしたい。
 帰りの新幹線でもシステム工学の本を勉強した。
 ワイフはまっすぐ帰宅したが、私は名古屋で開催される勤務先の部次長会に出席した。
 豪華な景品が当たる抽選があるので、欲の皮を突っ張らせての参加である。しかも、定年を迎える今年が最後の挑戦である。しかし、結果は、何も当たらなかった(涙)。
 こうやって、一つ一つイベントをこなしながら、楽しいことや悲しいことを経験しながら、最終的には人生のゴールへたどり着くのだ。達成感や満足感で満たされたゴールにしたいものだ。

1月26日(土)「ボケのせいかなあ・・・の風さん」
 たまっている仕事を片付ける絶好のチャンスなので、寝坊だけはしないように、普通に起きた。
 しかし、どうも集中力が出てこない。
 ボーッとしていてもできそうなpdfのデータベース作りをやろうとしたら……、で、できない(汗)。
 スキャナーで新聞記事を読み込むのだが、なぜできないのか分からない。
 パソコンを新しくしたせいだろうか?
 ボケた頭でああでもないこうでもないと考えて、やたら時間を浪費した末に、ようやく答えがわかった。
 な、なんと、昨年購入したプリンターのスキャナードライバーをインストールしていなかったのだ。
 しかも、添付CDが行方不明なので、ネットからダウンロードした。
 高性能マシンで執筆環境をバージョンアップしたが、まだ不備があったのだ。
 夕方から窓を打つ音が聞こえてきた。
 あられが降ってきたのだ。
 しんしんと冷えてきた。

1月27日(日)「名刺管理もいちおう復元・・・の風さん」
 昨夜の雪は止んだが、家の周囲に積もっている。
 でも、天気は好く、気温も上がるという予報なので、今日もたまっている仕事を片付けねば。
 午後から心月斎へ出かけた。
 依頼していた位牌の文字入れや仏壇のクリーニング、墓碑への彫り込みがすべて終わったので、残金の支払いをするためだ。
 最初に墓参をしたが、墓碑に彫られた父の享年は満年齢だったのに、母のそれは数え年だった。
 本堂に上がると、前の住職さんがお経を上げてくれるというので、祭壇の前にワイフと並んだ。
 終わってから世間話をして、お寺を失礼するころは、長くなってきた日もだいぶ傾いていた。
 私は、週に一度の灯油購入に走り、帰宅してすぐ屋外タンクへ給油した。
 ここまででかなり体力を消耗してしまったため、知的な作業を再開するのをやめて、昨日に続いて、ボーッとしていてもできそうな名刺管理に取り組んだ。
 新しいパソコン環境で、名刺管理ができるかどうかの確認である。
 ラッキーなことに、データベース(約千人分の名刺)は健在なことが分かった。ところが、肝心の名刺管理ソフトを新しいパソコンに移設できないのである。
 止むを得ず、ネット購入した。
 そして、データベースが読み込めることを確認した後、どっさりためてあった名刺のスキャナー読み取りを始めた。 
 大量にあったが、以前よりもスムーズに読み取れた。
 今日も知的な作業はさっぱり進まなかった。
 そして、夜になってまた冷え込んできた。

1月28日(月)「寒い日・・・の風さん」
 小雪がちらつく寒い朝になった。
 旧職場へ向かってミッシェルを走らせていると、狭い田舎道のカーブで横転しているワゴン車がいた。
 パトカーは来ていたが、救急車はない。怪我もしないまぬけな事故で、急ハンドルの果てにスリップしたのだろう。未熟者め。
 それにしても寒い。寒冷地仕様でないミッシェルのヒーターでは、なかなか車室内が暖まらないほどの冷え込みな
のだろう……、ん? 待てよ……あ! ベストを着てくるのを忘れた。ボケ老人め。
 午前中、総務や保安と意見交換をしたが、交通安全に関しては、社内、社外を問わず、嘆かわしい状態らしい。どうなるのだ、この国は。
 社内にあるATMで通帳記入をしたら、ふところの中を寒風が吹きすぎていくのを感じた。

1月29日(火)「講演の下打ち合わせ・・・の風さん」
 本社に車を置いて、電車で名古屋大学へ出張した。
 来週末、名大で講演をするので、主催者と打ち合わせをしに行ったのだ。
 初めてのところへ行くのに、ケータイを持ってくるのを忘れた。家に置いたままだ。
(昨日はベストで、今日はケータイか)
 毎日ヘマを一つもしないということがない。これが「老い」というものか。情けない。
 地下鉄の名古屋大学駅を出て、地図を頼りにとぼとぼとキャンパスを歩いて目的のセンターへ向かった。
 駅から遠い、ややこしい場所にセンターがあるので、なかなかたどり着けなかった。
 今回の依頼内容は私にはやや重荷に感じられていたが、実際に主催者と会って話をしたことで、やれそうな気になってきた。
 また、関係者の中に、予想してなかった親しい人が含まれていることが分かり、それも気が楽になってきた原因だった。

1月30日(水)「避難訓練結果に狂喜・・・の風さん」
 何か月ぶりかで研修所の食堂を利用した。
 いよいよ貧乏のどん底に落ちるところまで落ち、たった百円のカロリーメイトすら買えなくなったのだ。
 会社の食堂で食べている限り、給与から天引きだからだ。
 昨年の12月1日の避難訓練の評価結果を聞く会議があった。
 驚くべきことに、総合で5点満点の「4.2点」という結果だった。全社的に見て、これは素晴らしい成績である。職員が少なくて、いつも多くの研修生を受け入れている研修所で、この成績はアンビリーバボーのレベルである。
 採点は細かくなされていたが、私が班長をつとめている誘導に関していえば、「5点」満点だった。
 帰宅したら、新潮社から注文した『江戸の天才数学者』10冊が届いていた。
 請求書が入っていて、憂鬱になった。ただではないのだ。

1月31日(木)「幹事は一生幹事・・・の風さん」
 今週末からビジネススクールの講義が始まり、来週の金曜日には名大で講演があり、来月の講演のための配布資料の締め切りも迫っていて、今年度最後のヤマ場に差し掛かっている。
 昨夜もその準備で、就寝が遅くなった。
 約2時間半の睡眠で、研修所へ急いだ。
 今日は親友が研修所へ講義にやってくる。同期入社で、今は国立大学の教授をやっている。今夜は、彼を囲んで10年ぶりの同期会も準備していた。
 今年度最後のヤマ場を迎えて時間のない私だったが、とうとう終日、このロボット工学の世界的な権威の講義を聴講してしまった。
 ミッシェルで同期会の会場へ向かったが、最近こんなボロな車には乗ったことがないらしく、
「事故ったら死ぬな」
などと助手席でつぶやいていた。
 実はワイフも同期入社なので、ワイフ含めて多くの仲間が集まり、楽しい時間を過ごすことができた。
 幹事の私は、
「今年で定年なので、もう次の集まりはないでしょう」
とうそぶいたが(幹事のできる同期はいないだろうという意味)、
「次は**の還暦祝いをやろうぜ」 注)**は私の名前。私は同期で最年長。
「うおーっ!」
ということで、私に自分の還暦祝いをセットしろということらしい。困った連中だ。
 とはいえ、我が家の経済状況からすると、定年後も雇用延長になり、親友が次に講義にやってくる2年後に、また同期会を開催するような気がしてきた。

2013年2月はここ

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